脳梗塞 ワレンベルグな日々

ワレンベルグ(症候群)は脳梗塞の一種

70を再び切った、思う通りにはならない、ワレンベルグのこゝろ(再更新)

今日8月4日日曜、相変わらず晴れ、8月に入る前からほとんど降ってない。しかも溶けるくらい暑い。100年に一度のレベルの暑い夏、日本全国的に異常だ。

4年に一度(三年ぶり)オリンピックも、結果が出そろってきて、悲喜こもごも。
メダルを目標に何年も辛い練習を耐えてきた選手達の思いが伝わる。
こちらも熱い。
毎晩遅くまで、手に汗握り寝不足の嫁、いっぽういつも早寝の私。

早寝早起きは変えない。さらに後遺症の体に汗しながらパート勤務。自分の体重コントロールも、暑い夏に後押し?されるように、再び70を切ってきた。

アフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しているこの脳梗塞 ワレンベルグな日々」は、
脳梗塞経験者である自分が、日々感じたことなどを雑多に書いている日記。
先に始めていたNo+e版  
まつ@ワレンベルグな日々、時々No+e日記|note
にも、過去の就職までの自宅療養記をメインに日記を綴っている。
2022年大晦日脳梗塞(ワレンベルグ症候群)で入院、4ヶ月後退院、しかし無職となった。
後遺症が出るなど就労せずしばらく自宅療養。入院からすでに一年半すぎ、日常生活はほぼ回復(ただし、後遺症はまだ続いている)。社会復帰(再就職)がようやく果たせたのは、今年2024年2月。
パート勤めのブログはこちら
ワレンベルグのパート生活(脳梗塞の狂想曲)

 

来たる8月19日が、かかりつけ医の受診日。その体重測定で、着衣で70を切ることが目標だ。明日からちょうど2週間後、五輪選手の忍耐には遠く及ばないけど、これから暫くは、目標達成には、間食は控えねばなるまい、辛い。

 

 

サルスベリ 百日紅 コバルトの空。

オリンピックの結果ほど、時に無情なものはない のかもしれないが、世の中、思い通りにはならないから、辛い、辛い中で生きていかないといけないわけだ。

最近借りて読んだ角田光代さんの小説「紙の月」だが、ほんとに、普通の主婦が横領という犯罪に手を染め転落していく物語がグロい。どこか満たされない、一生懸命なのにちっとも報われない、そんなのは何処にでもある話だが、子どもに恵まれず、夫も無関心、でも経済的には人並以上の夫婦。しかしどこか満たされない、他人が気になる、少しぐらい私にも。。仕事のちょっとした勢いというか運命の悪戯で、身の丈を超えたカードの買い物をし、外食などで贅沢をしはじめ、出会った若い大学生と恋に落ち、彼を自分の方に向かせるためにさらに金を使う、止まらない。

紙の月 角田光代さんの小説 考えさせられる

指名手配、海外逃亡した彼女のかつての学友が、彼女の大それた犯罪を他人事としながらも、実はやはり、何処か満たされない。
犯罪者に落ちた彼女に比べれば、結婚、子宝にも恵まれた。しかし、産後鬱、あるいは子育ての難しさ、そして離婚したり、離婚はせずとも、子供が他人様のもの手をつけ捕まる。爪に火をともすように切り詰めた生活、子供のため将来のためにと。しかし、満たされない気持ちが燻る、やがて浪費癖に落ちてしまう人が居る。うまくいかない。そういう、うまくいかない人生の人ばかりが登場人物だ。

NHKドラマ化もされていた、映画(宮沢りえ主演)版もあるようだ)

 

自分の人生なども、60を前にして、脳梗塞という大病を患い、何とかパート勤め出来るまで体調は復活できたものの、後遺症があって普段の生活に不便(不満)がいまも多少ある。就職は辛うじてしたが、収入は過去と比べるべくもない。

ただ、発症直後は、寝たきりの人生が避けられないと観念し絶望した。
その時のことを思えば
、まだ恵まれていると、そう思えるはずなのだ。地獄を一度味わっているのだ。出来なくなったことをひとつひとつ取り戻す、一つ取り戻すことに喜びがあるにはある。

ところが、だんだんと、「普通」に慣れてくる、そして満たされない気持ちになる。
歩けるようになったら前を向いていけるはずだ、次は嚥下、しかし、これが治らなければ、一生入院か施設生活だろうとまた落ち込み、結果的、それらの機能がほぼ戻ってきたら、今度は後遺症が治らないと嘆く、欲には際限がない。

 

たぶん、本が言いたいこと(全てでは無いとおもうけど)と自分の人生で思ったことは似ている、こうだ。すなわち、人生ちょっとした、何か満たされない気持ちを抑える、というのは難しいのだな、である。

 

ともかく、思うとおりにはならないということ、それを当たり前と思うしかない。
そして、そのことでヤケになり、人や社会を逆恨みしたりしない、善悪の判断を間違えない、とか身の丈の中での生き方、他人と比べない生き方が出来る人が、不満だらけの人生を送らずに生きていけるのだ。そう自分は思っている。

真面目に努力すれば、報われる、、そこに固執すると、報われなかったときの絶望感や不条理感(不満)が、努力をした分だけ我慢した分だけ襲ってくる。
報われる時もある(あった)、そのくらいで止めておかないと、不満が心を押しつぶす
身も蓋もないが、才能や運があり私心が無く適度な努力をし続けた人は報われそうだが、今回の審判の判定の話ではないが、天が味方しない、報われないことが人生にも起こりうる。思いとおりになるときもありならないときもある、それらを受け入れるのも人生だ。

もっといえば、努力を全くしない人には、自分の思いが報われるチャンスはほぼ無い、そういう人生の厳しさも存在する、それだけなのかもしれない。
だから(出来る)努力をしておくしかない、絶対に全て報われるとは限らないけど。
思う通りにはならないけど、努力をしておく。
努力をほどほどにしておき、思い通りにならないこともあるさと思っておく、上手く行ったときは自分を褒め、上手く行かなかったときも、悲観をしない。自分はそう考える。

 

不摂生が必ずしも死を招くわけではないし、摂生し続ける人が必ずしも一生健康でいられるという保証はないのも同じ。他人から移る病気もある。
それでも、規則正しい生活とか運動とか肥満にならないような食生活とかを続けることで、いつか来る衰えや病をいくらかでも先送りしたり、小さな病を時に受け入れながらも無難に生きていく(生きていること自体に感謝する)。
人生はいいことばかりでは無いのだ。思うとおりにはならないと絶えず言い聞かせて、上手く行かない時でも、他を妬まず身の丈を超えず。

つづく