脳梗塞 ワレンベルグな日々

ワレンベルグ(症候群)は脳梗塞の一種

多様性って・・ワレンベルグの視点

アフィリエイト広告(Amazonアソシエイト含む)を掲載しているこの脳梗塞 ワレンベルグな日々」は、
脳梗塞経験者である自分が、日々感じたことなどを雑多に書いている日記。
先に始めていたNo+e版  
まつ@ワレンベルグな日々、時々No+e日記|note
にも、過去の就職までの自宅療養記をメインに日記を綴っている。
2022年大晦日脳梗塞(ワレンベルグ症候群)で入院、4ヶ月後退院。しかし後遺症のためしばらく自宅療養。入院から、約一年、日常生活はほぼ回復(ただし、後遺症がまだ続いている)。
結果、無職となり社会復帰(再就職)がようやく果たせたのは、今年2024年2月。
パート勤めのブログはこちらワレンベルグのパート生活(脳梗塞の狂想曲)

セパラフィネ(洗練されてない)、脳に傷持つワレンベルグの初老の自分には、
「多様性」だの、SDGsだのが、流行りの言葉というだけで、少しなじまない。
今の時代、この趣旨に楯突いたりすれば、社会的に抹殺されるご時世なので、
言葉を慎重に選ぶべきだ。
いや、頭ごなしに拒否してるわけではない、例えば、
性の多様性っていうのは、

要は、動植物には雌雄2つが生物学的に存在するが、その嗜好や属性などに関して、
個人は縛られず、差別や偏見、軽視、蔑視があってはならない(昔はあった!)。

(表現の稚拙さはさておき、大きくは間違ってないとおもうのだが、、)


まぁ、言葉はなじまないが、趣旨は解る。
両性以外にいろんなタイプがある(マイナーな嗜好や性質も含めて)し、
特にマイナーなタイプの人もいるということを理解しなさい、
それだけでなく、それらを個として尊重しなさい、、
要するに、少数である社会的弱者(性別以外にも障害者や妊婦の方なども)が
より生きやすくする社会を皆んなで目指しなさい! ということか。

ワレンベルグな私、脳の病気、バランスにやや難がある弱者側な私だが、
果たして、多様性というムーブメントの追い風は? 
多様性社会!の掛け声と実際私の抗い、という話。

 

多様性を認める社会に!という。
いろんな人が生きづらくならない選択肢がある社会に!という。
差別が格差を生む、格差社会への是正の動きという背景だ。

でも、弱者側に落ちた私には、厳しい現実は変わらなかった、
例えば、病気療養から社会自立を目指しようやく就活、糧を得るための職の選択。
希望通りにはならなかった。
フルタイムの一般事務の募集を行なった雇用先数社に対して、
脳梗塞でフラつきがあります!とオープンにして就活した私、面接に進むも不採用、
結果、パートになった。
希望したフルタイム、しかし就職の壁、多様性というのは掛け声だけ?
結果、三戦全敗。オープンに正直モノが馬鹿を見たと恨み節も出そうになる

ただし、雇われる側だけが、弱者権利を主張したりスネてみてもダメである。
雇う側にも権利はある
当たり前だが、フルタイムを雇う側がまずは長く働ける人をとりたいと思うのは当然で、差別でも何でもない、私は理解している。
応募先(フルタイム)と自分との縁が、今回は全くなかった。

残念ながら、脳梗塞の自分は年もいってる、採る側も慎重になる。
フルタイム(=稼ぎ)に拘らなければ、病気の自分を理解してくれる職場はあった、
むしろその方が自分の状況からして重要である。

きちんとした採用側は、今や身障者雇用などきちんとしている、
身をもって経験して分かった。
昨日まで1ヶ月半働いた職場では障害のある若者がパートで窓口業務をこなし、羨ましいくらいの働きっぷり、一緒に働くパートの私の刺激にもなった。
これは、一言でいえば職場の文化、いい循環なのだ、礼があり温かな環境そこに人が育つ、素晴らしかった。

ところで、健康な若い人にとっての就職難の問題、自分らにも関わってくる。
落ちこぼれやニートの生活苦の問題もあるのだが、
生きていく上で最低限の善悪の区別もできないのかと嘆かわしく思ったのが、闇バイトに飛び込んでしまい犯罪を犯す貧しき若者たち
職を持たない貧しき若者の一部がネットからの指示を受け安易に銀行強盗や、
更に弱者である老人宅を襲うという、まさに世紀末の世界が現実となっている、
嘆かわしい。
そんな彼ら(の貧しさ)の理解も多様性の一つとして、配慮や認識されるべきタイプなのだろうか?
弱者保護は分かるけど、その弱者に襲われるかもという老ぼれは複雑だ(笑)。
でも、闇の誘惑が多く、犯罪の手下にしようとする輩が大勢いる都会、誘惑の数に比べて温かみのある職場、働き口が少ない危うい社会、しかしそこに夢を見る若者、
少なくとも、まっとうに働きたいという若者に、いろんな選択肢が与えられる社会に変わってほしい。
今は弱者だとしても可能性も未来もある若者、しかし窮すれば容易に犯罪者に転落、
闇に堕ちれば、長い人生の選択肢を失う若者、増えていけば社会の閉塞感も増す。


ただ、多様性の社会が重要!という題目だけ唱えても、全世界的に叫んでも、
若者が闇バイトで道を踏み外すことを減らすわけでもない、
善悪の区別がつかない彼らに(貧しくとも)真っ当な道を示すものでもない。

だんだん豊かになって、我先で刹那的、勝つか負けるかが常に子ども頃から
付きまとい、比べることを停められない社会で、常に何か物足りない。
多様性が言わんとしている基本は、利他で普遍的な教えであり助け合う社会で、
「目の前の最も近い、困ってる人を助ける、思いやる」
だと思う、
昭和生まれのジジイにいわせれば、道徳の基本なのだ、
でも令和の今そこが分からない人達に溢れる社会が現実で、
根本をまず変えないといけない。

スマホ社会は成熟し、承認欲求なんていう欲望のために、未成熟な何でもアリの人が増えたり、ネットの闇が隙あらば生命財産をかすめ取ろうと襲ってくる。 
すでに生き辛い世の中だが、まず道徳や教育にもっと皆が関心もたないとダメだろう、とワレンベルグな私は思うのだが、寝ぼけた考えだろうか? 
もっと言えば、

最重要な道徳感が蔑ろなのに、
巷に真新しげな言葉「多様性」ということばが流行って
闇雲に弱者優先を!と中身の議論のない綺麗事を並べ、
さらに格差や差別を感じる全ての人が対象なのだと
裾野を広げてしまい、現実感なく目の前に漂っている
(と自分は感じる)。
いつもだ、耳障りのいい言葉が流行る、のっかるメディア、大衆意識。
そういう偽善、ユートピア、幻想に安易に引き込まれて騙されてしまいそうになるが、
世の中が便利に成りすぎて逆に文化や教育レベルが下がっているだけだ。
(意見には個人差が・)

脱線してしまった。

さて、性の多様性に話を戻せば、
長らく同性婚の法律見解が議論されてきて、肩身の狭い中で差別と闘い
あるいは無関心という世間に訴え、同胞の権利のために国と戦っている人々がいる

その人たちにとっては目指すものも多様性のある社会、正当な権利である。
さまざまな議論を積み上げてきている多様性がここにはある、、

そうだ、多様性とは与えられるというよりは、勝ち取るものか
既存の漂う風潮、国家という古いシステムなど、古い価値観との闘い、
いままでの常識に抗い、打ち勝って作られる文化でもある。
現実感があり、
一歩一歩、時に逆風で後退もあるが、負けず進んでいる。

ワレンベルグの私、いま、後遺症の完治は無理という常識に抗っている
その雰囲気だけでその気になったりしない、あるいは過去の踏襲や常識とかに従わない天邪鬼な性格は、脳梗塞発症後に、更に拍車がかかった。
やっかいだけどそれでいい。
世の(多くの漂うように広がる)多様性という流行りのムーブメントにも
すぐ馴染まない
のも性格によるものだろう。そういう視点も大事、多様性だ。

4月からの新しい職場で後遺症が一歩一歩改善でき、
パートだがその仕事を通じて、住みやすい社会、
慎ましくても文化的に豊かな真っ当な暮らしが選べる世の中

少しでも貢献出来ればと、弱者の端くれは思っている。

冬の終わり、春が訪れた。

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おわり