脳梗塞 ワレンベルグな日々

ワレンベルグ(症候群)は脳梗塞の一種

感謝1 家族【WB04】

思い起こせば昨年師走、クリスマス前にコロナに
かかり 、大晦日の朝、脳梗塞で救急車で運ばれた。

そこから、約4ヶ月の療養、リハビリ生活を経て、
ほぼほぼ普通の生活に戻れたのは、感謝すべき人々
のおかげだ。 
家族には、励まされて助けられた。 ①妻、母、妹
この病気を発症時点から間近で見てきて、もの凄く
心配をかけてしまった。

救急車で運ばれた朝のことだが、同居の母が同乗
し、妹は自家用車で。病院に着いて、ストレッチ
ャーに乗せられ、救急処置に向かう途中、
妹が駆け寄り、声をかけるが
「ダメだ、左が麻痺して動かんし、天井が回ってる」
と自分が答えたようで、妹も母もこれはダメだと思
ったらしい。最悪、車椅子生活かと。。
CT後、医師からの説明も追い討ちを掛ける。。
脳梗塞だけど、呼吸中枢がある脳幹なので、危ない
かもしれない、、
こう言われて、生命の危険ありと更に悩んでいく。
既に鹿児島の嫁に、救急で運ばれたので直ぐ富山に
来てくれ!と連絡した妹だったが、その後掛け直し、
状況的に今来てもしょうがないかもしれないとだけ
伝えたのだそう。(それでも妻は取るものとりあえず
富山に夜遅く着く、悲壮な道中が想像つく)妻は、
もし先に逝ってしまったら、、と悲しかったと。

入院後、コロナ禍で面会中止のため、その日は一旦
帰宅したが、合流した妻と母妹は重苦しい雰囲気で
数日を過ごしたのも容易に想像がつく。
翌日、病院に荷物を届けるも会えない日々がつづく、
自分は寝たきりながら、3日目に初めてスマホを動か
し始めるも、吐き気と焦点ボケで辛い。ようやく
正月明けて5日日、嫁と初FaceTime、翌日病院でも
オンライン面会が許され、会話をし(最大の危機
を脱した事等が自ら伝えて)少し落ち着く。

しかし、命は繋がっても、、先行き暗澹。
症状の実体と未来、即ち、歩けない、食べれないで、
いつまで入院か? 先が見えない不安を与えた形に
なる。自分自身が先が見えてないので、どうしよう
もないのだが。

結果的に、転院の2月10日まで、対面はなし。ただ
メールやSNSで写真や動画などで連絡した。
少しずつ歩けるようになった自撮り動画は好評。
まだこの位で済んでましだよ、スマホはおろか、
こういうやり取りも、親父の時は出来なかったねと。
少しずつ落ち着く。
そして転院日。救急から40日後にして、ようやく、
話す姿歩く姿を生で示せた。車椅子は脱せるかも、
家族がやや安堵する一方で、しかし、鼻からは管が
覗いてて、ティッシュで唾液を吐き出している姿を
見られ、まだ先が見えない辛い現実も示してしまう。

ただし、転院してからは、すぐ心配は小さくなった。
別記事通り順調に喉が動き、食べ始められ、SNS
こんな食事を完食だと送り、回復状況アップデート。
これで少し先が見え始め、双方に落ち着きが戻る。
妹はオンラインで実家のマルを映してくれ、無邪気
なマルにいつも勇気付けられた。脳にもよい刺激。。

転院後も基本は、面会禁止だった。
しかし月一の病状説明会があり、この時間だけだが
家族同伴可であり、会えることは勿論、順調な経過を
医師が説明することも家族にとって、安心になった。
転院から退院までの、実際74日は、40日間の急性期
よりも穏やかに、短く感じられるくらい、、自分と
家族が、加速度をもって回復と安堵に向かっていく。

妹は、離れて暮らす妻の代わりに、休みに合わせ
何度も病院に届け物等をしに、駆けつけてくれ、
母も連れてきてくれて、ありがたかった。
妻は1月と2月と4月に会社に長期休暇をとり、それ
ぞれ1週間程度富山に滞在し、月一の面会見舞や
医療保険、勤務先書類手続きなど私の代行処理。

自分は、リハビリに専念、一歩一歩、体調は波が
あったり、思い通りにならない時もあったが、
焦らず、自分の回復をもう疑わずやり尽くす。
 
長い先の見えない入院生活を、じっと支えてくれた
人々に、時間はかかったが、退院という形で応えた
こと、病気と今後も向き合っていくが、少しほっと
している。 
以前の生活にほぼ戻れたからこそ、の話である。